描きたい。作りたい。

もし、自分の身に、身のまわりに、何も心配するものがなくなったら、

一体何をするのか。

何がしたいのか。

オットは、最近、悩んでいる。

散々、ワタシに投げかけてきた言葉である。

それは、結局、自分に問うていたのだ。

自分でそれには気づかず、

ワタシが、一向に、したいことに向き合おうとしないことに、

苛立ちを感じていた。

結局、今、していないということは、したくないことなんやろ、と、

何度も、ワタシの心を掻き乱した。

けれど、何を言われようと、

ワタシのしたいことは、ぶれなかった。

描きたい、作りたい。

 

子育てで、大変な時も、

仕事をかけ持ちして、フラフラの時も、

ちょっくら病気した時も、

常に、描きたかった、作りたかった。

 

けど、いつも優先は、子どもたちだった。

自分の娘たち、工房の子どもたち。

器用じゃないから、優先じゃない自分は、

いつも後回し。

毎日、必死だから、思い出すと後回しの自分に、もやもやするから、

あまり考えないでいると、

そこへ、オットのツッコミが必ず入る。

いつもそれは、絶妙なタイミング。

オットは、ワタシの、ワタシ自身の表現が見たかったのである。

ただ、それだけ。

でも、ワタシが一向に、真剣に、表現しようとしないことに、

毎回、イライラしていた。

今思えば、ほっといてくれ、だが、

ワタシも、周りが見えてない分、突っ込まれると、

落ち込み、穴にもぐる。

振り返れば、何ともおもしろい夫婦の歩みである。

 

 

描きたい。作りたい。

そうぶれずに思い続けてこれたのは、

子どもたちのおかげ。

子どもたちの手から生み出されるものの、

言葉に表現できないけれど、

あえて言うなら、魂の表現が、心底、大好きだった。

こんなすごいものが、1番の特等席で見られるなんて、

わが教室をしてきてよかった、と何度思ったことか。

大人になると忘れていく子どもの感覚。

けれど、こんな特等席で見続けると、

忘れていくどころか、蘇るし、

戻るし、精神的には、ずっと子どもでいられた。

 

子ども優先にしてきたために、

できあがる作品は、もちろん子どもたちの作品ばかり。

ワタシは、自分の作品がなかなかできないことにもがいていたけれど、

そのもがきは、子どもたちの作品づくりの全力サポートで解消し、

子どもたちの作り上げていくものには、

自分の表現ものっかっているから、これでよし!と、思うことにしていた。

いつからか、子どもたちの表現が、自分の表現と融合している感覚になっていった。

 

疲れきって、言葉もでない日もある子どもたち。

自由に作りたいものが作れる時間と空間は、

毎日の疲れを癒やし、明日への活力になっていた。

帰っていく時には、とびきりの笑顔で帰っていく。

その後ろで、よし!っと、毎回ガッツポーズ。

今にもスキップしそうな子どもたちの姿が嬉しかった。

 

ワタシにとって、子どもたちとの時間は、

なんともかとも心地よく、

自分の中の子どもを、蘇らせ、楽しませる時間だった。

だから、純粋に、邪念なく、

描きたい。作りたい。が、子どもたちの表現と融合し続けていた。

 

自分の表現より、まず、子どもたちの表現。

それが、次第に、子どもたちの表現が変わりはじめる。

YouTubeで見た工作、しかも、大人たちが作るもの、表現するものに憧れ、

完璧を求め始める。

野山で、草原で駆け回る子どもたちを見かけなくなるように、

絵の具で飛び散らして、楽しむ子が少なくなり、

大きいものや時間がかかるものは、作らなくなってくる。

教室自体、継続してきてくれる子がほとんどで、

どんどん上の学年になると、そうなるのは、当然。

 

情報を手に入れいている子どもたちは、

様子が違う。

作りたいものが、どんどん高度になっていく。

自分の作れる範囲を越えて。

それはそうだ。

細かい作業経験がないから、できるかどうかもわからない。

やってみたい。でも、失敗はいやだ。

だから、やってー、とワタシに言う。

おいおい。ワタシの工作になっちゃうよ。がお決まりセリフとなる。

 

そんなこんなで、

ワタシの中の子どもが、置いてけぼりになっていくのには、

そう、時間はかからなかった。

ワタシの中の子どもの成長を、強制的に促すことにするしかなかった。

デジタルを駆使し、置いてけぼりになった時間を取り戻すため、

今の子どもたちを追いかけ、追い越すために、

いち早く情報は取り入れた。

まずは情報ありきの、表現へと変化していく。

パソコンの前で様々な情報を仕入れ、スマホを手にニュースを見ながら、iPadでYouTube。

材料調達で割いていた時間は、

ほぼ情報収集。

材料調達も、ほぼネットで注文。

わが教室スタイルでは、時代とともに、そうなっていくのは、当たり前だった。

同時に、子どもたちの表現が、自分の表現と融合している感覚がなくなっていった。

分離した。

 

変わり始めた、いろいろが、

いろいろ、ワタシに考える時間を与え始めた。

 

自分で情報を手に入れられるようになってきた子どもたちだが、

自分で手に入れられない時期の子どもたちに、

手に入れた時に、自分を自分でステップアップさせる力に変換できるように、

してあげとかないといけないなぁ、と、なーんとなく思い始めた。

 

人間の脳の成長に、必要なことがある。

それは、ワタシが大事にしてきたものの中にあるような気がする。

 

子どもたちの表現と自分の表現が分離した、今、

ワタシに何ができるんだろう。

 

 

描きたい。作りたい。

まだ、ワタシの中にちゃんと、いる。

 

 

 

 

昨年のお絵かき大好き孫1号

コメント

タイトルとURLをコピーしました