子どもの時間

心の解放

「今日、居残りやって、疲れたわ。学校の図工はきらいや」「そうそう、先生がこうしなさい、ああしなさい、ってうるさいし」「やりたいようにでけへんのが、いややな」と、来ていきなり思っていたことを、吐き出す子どもたち。言いながら、忙しかった時間の流れから、抜け出した開放感から、どんどん本音をみせる。
自宅で開いている絵画教室では、そんな子どもたちの会話がとびかっている。ある男の子が、「ここ来るとな、力が抜けるわ。こんなんでええんやろか」と、言った。学校でも、家でもいい子としてがんばっている彼は、ここに来て、がんばらないでいいやり方にとまどっていた。がんばることしか知らない彼にとって、きっと未知の世界だったのだ。「ホンマに、こんなんでええの」と、不安そうに言う彼に、「ええやん、ええ感じやで」と答える私を見て、安心して描き続けた。
週休二日になったとはいえ、日々子どもたちは、忙しい。もちろん、大人も忙しいのだが、あの小さな体でよくがんばっているなぁ、とつくづく思う。朝早くから登校し、各教科の授業、縦割り活動、総合学習、クラブと、日替わりでやらないといけないことが盛りだくさん。その上、家に帰っても、お稽古事、塾など、夜遅くまで家にはいない。「遊べる日は、火曜日だけやねん。他はな、ピアノと英語とスイミングとお習字があるねん。もう少ししたら、塾も行くんやで。だって、受験するし」と二年生の子が言う。そういう子は、少なくないのが現状。「そうか、たいへんやな」と言うと、「やりたいことやし、ええねん」と返ってくる。そういう子に限って、与えられたテーマを器用にこなす。あくまで、さらりと。そして、それは、お決まりのように、親うけする。

あふれる情報社会の中で、今の子どもたちは生きていて、やりたいことやほしいものが、忙しい時間と時間の間をぬって、手軽にすぐできたり、手に入れられたりする。そのため、面倒なことや時間がかかることを、特に嫌う。「あー、めんどい」「はよしてーな」「だるー」と、子どもが発する言葉を聞いて、こちらまで、「はぁー」とため息が出そうになる。広く浅い経験が、子どもをいらだたせ、短気にさせているのだと思う。時間差でいろんなことをしている子どもたちは、体はもちろん心も緊張し続けているため、そうならざるを得ない。そんな状態で、絵や造形物をつくっても、はっきり言って、心ひかれる作品はできない。
私が求めているのは、表面的な表現ではなく、体の奥底から湧き上がってくるような、子どもにしかできない生命力あふれる表現である。それを、色に線に形に、ぶつけてほしい。たとえ、それがくすんだ色であっても、ゆがんだ線であっても、今そこにいる子どもの等身大の自分が表現されているのだから、それでいい。たとえ、たった数センチの粘土作品しかできなくても、それが、今の自分ができる表現の全てなら、それでいい。その作品ができるまでの過程を大事にしたいと思っている。こなす表現は、いらない。絵画教室なので、絵や造形物が成果物で、それらが少しでも上手くならせたい、と保護者の方は思われているかもしれないが、ここは、がんばりすぎている子どもたちのつばさを休める場であり、心を開放できる時間であってほしいと私は思っている。その中で、自分と向き合い、さまざまな思いと葛藤しながら、作品をつくり、自分が好きに思える表現を見つけていってほしい。
手を動かし、道具を使い、作り出す世界は、極めてアナログ。だからこそ、自分がわかるのだ。今日も、京都の小さな教室で、子どもたちの概念崩しを楽しんでいる。

(補導だより 2004年春号)

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